サロメ-オーケストラ版 ロングインタビュー Vol.1
演劇ライター・徳永京子 X ルームルーデンス 演出 田辺久弥・俳優 棟方絵夢
2007.5.19 品川インターシティーで収録
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徳永
ホームページで過去の作品を見せていただきましたが、音楽がすごくいいですね。サロメだけじゃなくて他の作品も“耳が離せない”という感じです。
田辺
今の作曲の中村君(夜長オーケストラの)、今度会って頂けると思うのですが、彼とは去年の二月のシアターχの「夜長姫と耳男2nd」からなんですよ。
それまでは全部私が選曲していて、ありものの曲を使っていましたが、サロメの前のシリーズ全5回、あれだけは東顔回という同年代の作曲家に全部
やってもらいました。あれ以外は全部私の選曲で、高校生のエデュケーションプログラムも私の選曲なんですよ
徳永
高校生のエデュケーションプログラムは、恥ずかしい話なんですけど私は存じ上げていなくて、(サイトの動画を)クリックして経緯を読んで
興奮しちゃいました。
田辺
ギリシャ公演が興奮しますよね、さすがに。私も渦中でしたから。
徳永
「なんて大変なことをしてるんだ?!」と(笑)。
田辺
本当にあれはドラマでしたね
徳永
自分がそういうアンテナを立てていなかったのも悪いんですけど、でもこれはもっともっと(世間に)知られるべきだと思いました。 ああした活動が種の
植え付けになって、関わった生徒さんを中心にこの先5年10年30年という時間の中で根をはり、芽を出し、葉が広がって行くんでしょうけど、
それとはまた違う次元でいろいろなところできちんとアナウンスされないといけませんね。ジャーナリズムは、ああいうことこそニュースにしないとダメ
なんじゃないかと
田辺
まさにそう思うんですけど、なかなかやっていただけなく。。。踏ん張っております(笑) 本当にエデュケーションプログラムはお金を取っていないんですよ。
高校生や高校側から参加費とかそういった意味ではまったくお金は取っていません。無料でやってます。本当はマチネ公演を我々がやれば収益に
なるのですが、ゼロですから。パンフレット代みたいなものとして500円ほどお客さんからは頂きますけど、それでもあってないようなものだから。
そのパンフレット代も演出の方の交通費とか・・そのぐらいにしかならない。ギャラにはならない。
徳永
ホームページで拝見しただけなのに、物凄くドキドキして、凄いと思いました。私が見たのは数枚の舞台写真ですが、高校生がちゃんと役者さんに見えました。
田辺
やっぱり中学生や小学生をシアターゲームなどのワークショップで演劇を経験させるのも良いと思うんですけど、どうも私はそれが苦手で、
ワークショップを一回だけやってもなぁと。やっぱり作品を作るっていう、一番プロでも辛いことを経験してもらえないかなと。
私の知り合いに在外研修でイギリスに行っていた人がいて、向こうのエデュケーションについての様子を聞いたのですが、本当に羨ましい限りですね。
一年間かけて、毎週土曜日の一つの授業ですけれども、そこにプロの演出家は来るわ、時期が変わればプロの衣装家が来たりだとか、プロの声楽家が
来たりとか一年間かけてそういったプロと交わる、本当にトータルな教育なんですよね。プロのアートマネージメントの方も呼んだりして、いかに生徒さんが
自主的に高いレベルでできるようになるかということを一年かけてやるんですって。それでオセロとか、そういったものを中世演劇やRSCのように
やるかというとそうではなくて、オセロは黒人と言うことで地域格差とか、そういうったことをディスカッションさせたり、現代性を求めていくんですね。
本当に凄いなと思って、それを(日本で)できないかなと思ったんですよ。
どちらかと言うと「良い俳優」を量産するという考えはまったくないんですけど、「良い観客」は量産したいと思うんですよ。生活の中に演劇が根付いて
いない、つまりは義務教育の中に演劇が入っていない国の舞台芸術家としてどうしたら良いかと。
まあ大海に石を投げるような行為かもしれないですけど、やっぱり高校生のうちに「エデュケーション」という、プロと関わって高いレベルの作品を創造し
上演させるというのが私にできる唯一かなと思いまして。でも、誰も助けてくれないだろうなと、世の中見て(笑)しょうがない、ふんばるか、と思い、
やり始めたんですよ。
徳永
今回の「サロメ」ですが、オーケストラ・バージョンなんですね。ルーム・ルーデンスさんは去年から生のオーケストラを入れてらして、
その流れと関係していると思うんですけど、そもそもなぜオーケストラを?だって、普通に考えたらとても大変ですよね。
田辺
誰もが考えなかったことではないと思うんですよ、演劇とオーケストラの融合というのは。でも、誰もができないことだと思うんですよ。まあ費用の面でも
そうですし、演出家は得てして音楽に造詣がないですから。
余談ですけど、演劇の演出家って二手に別れると思うんです。美術的な演出家と音楽的な演出家と。つまり絵を横で取るのか縦で取るのかっていうような
大げさに言うとそんな感じ。日本の演出家って横で(美術的に)取る人が多いと思うんですよ。私はまったく逆で音で取るというか、縦でとるんですよね。
それは多分、原初体験じゃないですけど、万有引力にまだ天井桟敷の俳優がいっぱいいた頃にギリギリ研究生で私は入ったんですけど、やっぱり演出の
J・A・シーザーは天才だなと。あの音楽も今の演劇界に取ってみれば古すぎると言えば古すぎるんですけど、でも音楽の美的センスは凄いと思っていて、
今でもそうですけど、音で空間を作ってくる感じがするんです、シーザーは。あれは日本にはめったにいないタイプだと思います。正直影響受けました。
だから演劇で、演出に音楽の造詣に詳しい人が少ない中で、オケとできると言うことは千載一遇のように感じたんですよ。「夜長姫と耳男」をオケとやって、
問題点もいっぱい出ましたし、「身毒丸」をやって問題点もいっぱい出たんですけど、でもお互いそれは全然「二度とやるか」ということではなくて、
もっとできるんじゃないか?と。
徳永
前向きな課題として残った?
田辺
前向きなわだかまりとして残ったんですよ(笑)苦労するのはどうやったって苦労するわけですから、ルーデンスの本公演は思いっきりこれでやろうよ、と。
オケと劇団員全員のコンセンサスが取れて、じゃあ何をやるかと言った時に、今までレパートリーとして作ってきたものをオーケストラ版に焼き
なおしましょうと。あ、いいね。じゃあ第一弾はなあに?って言った時に、レパートリーの第一弾からやりましょう。で、サロメと。
徳永
美術的な演出家、音楽的な演出家っていう話なんですけど、確かに日本の演出家の方って文字(戯曲)から作品に入っていく台詞第一主義の方が
多いからか、美術の捉え方が二次元的、セットを書割っぽく捉える方が、まだ少なくないですね。、音楽を上手に使ってらっしゃる方もいるんですけど、
中には、たとえばポストイットで貼り付けたみたいにクライマックスシーンの手前から音を乗っけていって、適当なところでフェイドアウトさせておしまい、
みたいな。それで成功してらっしゃる例もあるんですけど、やっぱり時間の流れ方も一方向だし、音楽の可能性を使いこなせていない作品は多いですね。
田辺
要は考え方がBGなんですよ。そんな馬鹿なと思うんですよね。照明にしても、衣装にしても、よく俳優に言うんですけど、舞台上にあるものは全て俳優の
道具だと思うんですよ。音楽だって道具であって、みんな共存してなきゃいけないだろうと。だからBGという考え方はまったくない。これはオケのみんなにも
結構言ってるんですよ。やっぱり音楽で、例えば、ミュージカルでやる時は「劇伴―劇の伴奏、はやめましょう、その言い方は」。他では劇伴って言って
くださっても、個人の自由ですけど、ルーデンスの現場は「劇伴」はやめましょう。オケならオケでいいじゃないですか、俳優なら俳優でいいじゃないですか。
一つの作品の中で一緒にやっていく。なので、オケが演奏だけして済むと思うなよ、みたいな(笑)芝居の中に引きずり込むぞ、みたいな。既に引きずり
込んでますけどね(笑)ウィスパー言わせたりとか。
徳永
中村さんと田辺さんの出会いはどういうところからだったんですか?
田辺
前に「盲獣」という作品をやった時に、四重奏でやったんですけど、その時関わってくれたビオラの方が間に入ってくれて。彼も薄々私のことを知っていた
ようで、それでちょっと一回会って全部私の資料を渡したら、是非やりたいと。
「何を?作曲ですか?」
「まあ作曲ですけどね。作曲家ですから。」
「生演奏をやらせて欲しい。」って
徳永
じゃあ、中村さんの方からわりと積極的に?
田辺
そうなんですよ。「生演奏ですか?ああ、いいですよ。何人ぐらいですか?」
「あの、オケでやりたい。」
「え?オケ?はっ?何人くらいをイメージしてるんですか?」
「15人とか20人」
「え〜?役者より多いじゃないですか。そんな予算ないですよ。」
オケを雇うっていうことがどれ位のことか何となく予想はつきましたから。
「いや、もうほとんど手弁当でいいです。」
その後ちょっとして、忘年会があったんですよ。そこにオケで興味ある人を連れて行きますからって言って、十何人本当に来やがって(笑)
徳永
演劇界にとって宝物ですね。でもいらっしゃるんですね、そんな奇特な方達が(笑)。
田辺
すごいいたよね。十人ぐらい来たんだよね。あの時ね。本当に、びっくりしました。
徳永
私が今までインタビューさせて頂いた演出家の中にも「音楽を大事にしたい」とか「生演奏にこだわりたい」っていう方は少なからずいらっしゃいましたよ。
でもやっぱり(演奏者は)3人ぐらいです。
田辺
それが限度ですよね。
徳永
だってまず物理的に、劇場のスペースの問題がありますよね?(小さな劇場なら)ピアノを入れちゃったらおしまいじゃないですか?
田辺
確かにおしまいですね。
徳永
よもやそんな、本当にオーケストラを(入れることを)考えるなんて。かなわぬ理想として夢見る演出家はいるでしょうけど。
田辺
考えることはできると思うんですよ。
徳永
だって、オペラやミュージカルでさえテープ演奏というケースはたくさんありますよね。で、「え、テープなんですか?」って言うと、制作の方が
「じゃあ、チケット代が倍になってもいいですか?」と。
田辺
それが現実ですよね。だから今、出来る限りのコストカットして、これは大雑把にザクッと言っちゃいますけど(観客動員数が)1000人の壁を越えれば
助成金がなくてもなんとかいけるんですよ。1000人の壁を越えればです。だからもう必死です。1000人の壁っていうのは、噂が客を呼んで増えはじめる
と思うんですね。演劇界には昔からこの言葉ありますけど、そこに行かないとオケを続けることはできないっていうことであれば、がんばろうと思ってます。
徳永
「夜長オーケストラ」との共同作業ということでは、今回が3作目ですか?
田辺
正確には4作目なんです。1作は録音と生演奏と実験劇とということで、カミュの「異邦人」のたたき台版みたいなものを実験公演としてやったんです。
その時に生演奏で、彼の作曲でやりました。正確には2.5回かな。本公演では3回目でいいと思います。
徳永
さっきお話が出た「わだかまり」ですが、それがあると認めつつ咀嚼して、また一緒にやりましょうというところからスタートされているなら、
かなり早い段階から、音楽と演出、あるいは役者さん達は共同作業、合同の稽古を始められるんですか?
田辺
えっとね、逆なんですよね。やっぱりどうしても、彼が一つの打ち込みを作曲するんじゃなくて、オーケストラのスコアを全部書いていく作業をするので、
やっぱりトータルを把握しないとなかなかやっぱり。私も逆の立場だと厳しいだろうなと思いますしね。だから逆に俳優の方は、私の当て込みの曲は
使わずまったく無音で稽古をやっていて、何が来ても基本的には崩れないというところを平行で作っていくっていうのが今回のチャレンジと言えば
チャレンジですね。中村君の曲は強いですけれども、強い曲が来たら、もっと相乗でドーンといけるようには予想してますけど。ただ、そうなると
どうしてもパッチワーク的な作業になってしまうと思うんですね。そこがいつも私と中村君の課題で。もっと有機的に変わっていけるところをどんどん
作って行く。今回はちょっと有機的なものは2シーンですね。俳優の動きで楽曲が変化していくというか、俳優の心象がこう動くから、楽曲はこう変化する。
それはスコアには書ききれないぞ。そういうところを2ヶ所残してますけどね。
徳永
それはあえて、残してある?
田辺
あえて残していますね。
徳永
残してあるところは、(演奏家と役者の)セッションみたいな感じにするんですか?
田辺
演奏前のオケリハみたいな感じ。あれが芝居と平行していて、俳優の動きや台詞によって、行ける楽器がぷぅっと出たりとか。
例えば王様が滑ったら「へろへろへろへろ〜」みたいな。だんだんそのオケリハが楽曲化していくような。
徳永
じゃあ、まさに音と役者さんが一体になって、ひとつの表現体になる、「気」を合わせるっていうことですよね。
田辺
そうですね。それはやっぱり生の醍醐味でもあるでしょうし、利点でもあるし。または逆に他のところではそこまで突っ込めないでしょうって言うところを
やらないと、私達なりということにはならないですし。
徳永
ひとつの役にひとつの楽器が対応していたりするんですか?
田辺
基本はそれから話をしながらも、ちょっと違う。感情が変わったら、弦の方に移る、とか。
徳永
なるほど、楽器の特性によって使い分ける。
田辺
それは必ず狙っていくでしょうね。お客さんから見ると普通に流れて、気にしなければ流れていっちゃっていいと思うんですよ。ただ綿密にオケリハが
実は組まれている。こういうのをやろうかな、と。
徳永
綿密だけど、あくまでもライブであるところは残す。
田辺
実はみんなだらだらやっているようで、眼でずーっと俳優おさえてる、じゃないですけどね。
徳永
お互いがお互いのコンダクターですね。
田辺
本当はコンダクターがいなくても関係性でパッといけるのが理想だということは言ってるんですよ。
徳永
ひとつ気になるのは、オーケストラに入れるようなクラシック音楽の勉強をされた方って、いくら体で音を覚えていても、楽譜が目の前にないと
演奏しづらいという点です。役者さんが台詞第一主義に走りがちなように、クラシック演奏家は楽譜第一主義だという。
田辺
最初は確かにそうだったんですけど、私の方から徐々に崩しまして、俳優がちょっとチョッカイ出し始めたり、舞台中の擬音をオケ全員で言ってもらったり
とか、そういうのをちょっとずつ積み重ねながら。「あ、そういう感じじゃないんだな」っていうのを染み込ましてもらって、やっとここまで。
徳永
集まってくれたミュージシャンの方達は、そこは抵抗しないで楽しむ方向で乗ってくれたんですか?
田辺
結構ですね、楽しみながら。いいメンバーが揃ったと思うんですよ
棟方
元々ボランティアでもっていう気概で集まってくれた方がベースになっているので、そういった意味では凄い柔らかい
田辺
最初から「ギャラいくらですか?」みたいな人はまったくいないですね。そういう人がセンターなので、今回入ってくるような人も「あ、言えないんだ、
ここは」みたいな(笑)楽しめばいいんだなみたいな、感じの人がちょっとずつちょっとずつ増えていますね。
徳永
それはお稽古場を拝見するのが凄く楽しみになってきました。
田辺
今回ハープを入れるって言うんですよ(笑)
棟方
でもハープ凄い似合いそう
田辺
小さなハープじゃないんですよ、でかいハープですよ、入れるって言うんですよあと、ティンパニー入れるって言うんですよ。
徳永
場所を取るものばっかり(笑)。
田辺
ティンパニーってでかいですよ。それを2つか4つ入れるっていうんですよ。そりゃ音量凄いけどさ、どういう楽団だよ(笑)
徳永
でもスペースの問題もありますけど、役者さん達にとっては、圧倒的なオーケストラの音量と融合できる力を要求されるわけですよね。融合であり、
時には戦っていかなきゃいけないという・・・。
田辺
絶対に音の方が強いですもの。圧倒的に強いですもの。いかに俳優が弱いかが目の当たりにわかります。やっぱり強い俳優はそれでもまっすぐ
やりますからね。簡単にはがれちゃうんですよ。いくら台詞を大声で言っても通らない人は本当に通らないし、そんなにがなってないけれどもキチッと
立っていれば意外と通るもので。すごい試験紙になっちゃってますね。
徳永
そうでしょうね。単純に物理的に考えて、音は空気を震わせる伝わるもので、楽器はそのための機能を備えていますから、有利ですよね。
田辺
そういうことですね。だから人の声は限界があるけれども、その存在の力は拡大できると思うんですね。拡声器の仕組みが技術だったりメソードだったり
するわけですね。それをどうカンパニー化するかというかそこはルーデンスに限らず、どこの劇団も時間がかかることです。俳優自身も意識を
していないと、例えばルーデンスに出てオケが前にかぶさった瞬間に彼方に消えてしまうんですよね、カラダが・・・・
それは「身毒丸」にしても「夜長姫と耳男」にしても散々味わいましたけどね。
徳永
資料映像を拝見して、ルーデンスの役者さんは、通常の台詞劇の役者さんより強い身体性を身に着けていると思いました。音楽との関わりもそうですし、
台詞を(演じる役者と)別の人が喋ったりとか、装置が立体的に動いていく中で時には自分が隠されてしまったりとか、いくつもの縛りの中で演じてらして。
身体性のスキルは凄い高い気がするんですけど。
田辺
いやぁ、でもみんなちんぷんかんぷんじゃないですか?まだまだ(笑)どんな構造を組んでいるかも多分あんまり最初のうちはわからないですよね。
「夜長姫と耳男」にしても「身毒丸」にしても、例えば「身毒丸」は撫子と身毒の上に更に父親っていうのを被せましたけれども、そこの優位性
みたいなものはなかなかこう俳優全員にはねぇ・・キャリアのある人ぐらいですかね。気づいているのは。今回のサロメも結局はタイトルロールは
確かにサロメなんですけども、
徳永
「家族劇」?
田辺
視点を父親に合わせてる
徳永
(主眼は)はっきり父親なんですか?
田辺
そうですね。見た目は父に合わせてますね。当然母親のヘロデヤは無言で許可する人ですから、「娘を殺す」と言うことに対して、反対しませんでしょ?
夫婦っていうことにも広がるし、「王・王妃・王女」この肩書きをこの3人から抜かしたらただの家族ですから。家族が壊れていく話として捉えると、
生き残った人の視点というか、想いというか、ここが非常に私は大切と言うか、引っかかったんですよ。サロメはデカダンスとか世紀末文学とか
そういう言い方いっぱいしますけど、そういう魅力はあんまり私は感じないんですよ。女子美の女の子が憧れるような、そういう感覚は私にはないんですね。
徳永
(大爆笑)
田辺
はまりました?(笑)
徳永
はまりました(爆笑)。必ず卒業公演で・・・やりたがりそうですね。
田辺
まったくそういうものはなくってサロメっていう女性も小悪魔じゃないですけど、そんな稀代の悪女みたいなイメージは全くないんですよ、読んでみても。
あ、このこ普通の子っていうか、欲しいモノは欲しいって言ってるだけと解釈すれば、凄い素直な子なんじゃないのかなとすら思えるんですよね。
その子がどうしても欲しいって言ったものが、ただ単純にヨハネっていう、まぁ「首」っていうことに最後はなりますけど、それは言の葉というか、こう、
どうしようもない素直な言葉で。本当はヨハネに自分を理解して欲しいというぐらいのことであって、それは女の子からすれば、大冒険で言ってしまった
初めてのことで、男の子へのわがままというか変な言い方ですけどね。それを考えるととっても「普通」だと思うんですよね、この話って。で、父親は
一応権力者ですけれども、必死にそれを守ろうとしている。これも「普通」だと思う。で、母親はそんな父親を「ふんっ」とか言いながら、サロメは当然
自分の実子ですから若い頃は似ていたでしょうし、あんな魅力があったとヘロデア自身も思っているというような〜そんな感じもわからないでもないし
全部剥いで行った時に、そういったワイルドが被せた虚飾というのは、ああ確かに虚飾なんだな、虚飾を被せたんだなっていう気がするんですよね。
徳永
核ではなくデコレーションの部分。
田辺
非常に人の心をくすぐりやすいものを被せたんで、そういった意味でもこの作品は人の心をはずさない作品でしょうけども、本当はもっと当たり前な
人間性がはずさないんだろうなぁと思っています。
それとやっぱり現代演劇の演出家ですからね、「今」を重ねるというか、やっぱり劇団性の崩壊じゃないですけど、バブルが弾けて以降っていう言い方も
変ですけど、みんなそれぞれ自由になって、職業を選べたり、職業につかない自由もあったりなんかして。でもそれは一見選択の自由に思えるかも
しれないけれども、実は自由を選んで何かをするっていうことじゃなくて「何かをやらない」っていうことをしてるだけなのかもしれないとも思えるんですよ。
演劇で言えば私は'91年から研究生で万有引力やってますけど、あの頃は「演劇をやる」っていうことは劇団に入るってことだったんですよ。でも多分
'95年かな?ちょっと世の中が変わってから以降、特にそうだとおもうんですけど、そういう感覚が今はまったくないと思うんですね。学生同士のサークルの
延長かもしれないし、ちょっとコツがわかればプロデュースがいっぱいありますから、今の小劇場は。くっだらねー芝居ばっかやりやがってとか思います
けど、でれちゃうんですよ。
徳永
うんうんうん。
田辺
ホントにね、営業熱心であれば年に6本ぐらいできちゃうんじゃないですかね、プロデュースで。で、それはそれで個人にとってはいいのかもしれないけど、
業界にとってどうなんだろうかな。それを観てるお客さんにとってどうなのか。要はたいしたことないって思うんですよ。もっと言うと、それまずいんじゃ
ないかとすら思うんですよ。
徳永
うんうん。
田辺
それは何でだろうと思ったとき、やっぱり軸がないからだよね。個々にも軸がないし、劇団のほうにも軸がない。じゃあ、それは劇団だけがそうなのか、
演劇だけがそうなのかって言うと、それはそんなことはありませんよね。世の中ってのはあわせ鏡、ですよね。世の中に軸がないわけです。一番小さい
ところは個人、そして家族。ま、恋人もそうかもしれないですね。で、家族の軸、父権ですか?カミナリ親父を復権させるつもりは全くないんですけど、
父権が、家族の軸がきちっと「なる」というのはありかなあっと思うんですよね。それはお母さんがしっかりしててもいいのかもしれないけど。このヘロデ家も
結局は子供の我儘に押し切られたって感じがするんですよ。やっぱりヘロデが言い切れなかったっていうか、それは結構今の感じと同じなんじゃ
ないかなー。これが昭和2・30年だったら、駄目なものは駄目じゃー、みたいな。踊るってこと自体がないと思うんですよ。許可するわけがない。でも、
躍らせちゃうわ、許可しちゃうわ。とっても芯のない家庭ともいえるんですよね。でもそれが、多分今は、それを自由だって呼んでる節があるような気が
して。とってもいけんなーと。だから、芸術家が何をできるか、っていったら、今をあわせ鏡でやる、チェルフィッチュとか、本谷さんみたいなこともひとつの
やり方のひとつですけど、私はもう半歩とかもう一歩先のアプローチが世の中にあればなーと思うんですね。それがエデュケーションもそうですけども、
今回のテーマも、やっぱり軸があったほうがよくない?っていうそういったことを、まあサロメをろ過してというか、通過させながら、ドンと、お客さんの中に、
落としたいなと思うんですよ。再構築させたいなーと。
徳永
今回のサロメは、家族の崩壊から再生までが描かれる。
田辺
はい、そうです。
徳永
崩壊で終わってますよね、原作は。
田辺
そうです。
徳永
ということは「再生」は田辺さんのオリジナルですね。どんな再生を提示されるか、とても興味があります。演劇的にもですし、今の世の中にどう提示
するかに。私達が今作っている家族関係がおかしいということは、もうみんな気付いてるじゃないですか。だけどどうすれば再生できるのかはわからない。
「ゆとり教育の修正?」とか「食育?」とか、いろいろと手立ては出てきてますけど、本当の正解はわからないですから。あの、サロメの家族と重なって
いるところで言えば、現代の日本の家族、自分を含めて考えると「お父さんもお母さんも好きにするから、お前も好きにしていいよ」という、変な自由の
蔓延があると思うんです。
田辺
そうそうそうそうそう。それそれ。
徳永
「駄目なものは駄目」といえないのは、お父さんもお母さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも、自由という名のもとに、ちょこちょこ悪いことをしたり、秘密を
持っているからで、そういう自分の免罪符として家族に自由を・・・
田辺
していいよっていうこと、許可を与えるわけですよ。
徳永
ですよね。自分が「don’t」といわれたくないから、自分も「don’t」といわないっていう。それは結局、自分に対する免罪符だと思うんです。で、その状況
まではみんななんとなく分かってる。だからその先を、自由を手放したくないわがままな家族に田辺さんがどう伝えるのか、すごく興味があるんです。
一同(笑い)
田辺
それこそ押し付けてはいけないかなーという気がするんですね。もしかしたら、再生って言うのは、絵で見せられるものではなくて、絵でみせられたら、
それは食育なりなんなり、親学なりなんなりと、結局同じになっちゃうと思うんですよ。だから、再生を自分でつかまなけりゃいかんのじゃ、っていうところに
落とせればいいと思うんですよ。
徳永
その先を考える補助線だけ引いていく感じですね。
田辺
そうなんですそうなんです、ええ。そこができれば、芸術ってよんでもいいんじゃないかなって。それを見せつけたら芸術でないとすら思ってて
徳永
なるほど。
田辺
そこは個々に持って帰ってもらいたいからこそきちんと補助線をひきたいかと。そこにいたる補助線だけはもう丁寧に丁寧に積み上げたいと思うん
ですよ。うん。そう考えております。
徳永
じゃあ、そこは本当に見てのお楽しみですね。
田辺
お客さんの中のものなので、こうなってほしいって思いはありますけど、必ず赤になるとか青になるとか、三角形になるとかそういうのはとても
いいきれない。うん、でもそこが逆に言うと芸術の基本的な姿かなぁと、思うんですけどね。言えちゃったら、書けちゃったら小説とかでいい。
徳永
そうですね。
田辺
だからちょっと、答えとしてはすかしちゃってるように思われるかもしんないですけど、うん、そう思ってますね。
徳永
では(本番を)楽しみにしています。
田辺
そこにいたるイメージシーンはね、
棟方
ああ、昨日土台を・・・。
田辺
昨日最後まで作ったんだよな。
棟方
とり終わりました。
徳永
へえ。
田辺
最初と最後に登場しますけど、非常に手が込んでおりますね。
徳永
棟方さんはどういう風に感じられたんですか、その最後のシーンは?
棟方
最後のところですか
徳永
はい。
棟方
去年、身毒丸では最後に、家族が4つテーブルに座って・・・・その最後とは、また違う感じでもっとパーソナルな、なんか課題を感じる・・・
田辺
身毒はね、身毒と撫子とせんさくという、三人のテーブルの中に父親が戻っていくというところで終わったんですけど、まあ、それとは逆になってるって
いうね、ある意味ね、
徳永
ああ、なるほど。
田辺
ですですです。
徳永
実は今日のお話を伺うまで、今まで上演された演目から、田辺さんは強い女の人が出る芝居がお好きなのかと思っていたんです。
田辺
はははははは。よわっちい男ですから。
棟方
かならず、あの男性、対比になる男性とか、父親とかでてくる
徳永
うんうん。だからすっかり・・・。
棟方
そのへんは特徴かなって思ってて・・
徳永
過去の上演作品のタイトルだけ見ると、強靭といいますか巨大な女性性を持った、はみ出しちゃってる女の人の話ばっかりですもんね。
田辺
もう毛穴から出ちゃってるみたいな感じでしょ。
徳永
そうそう、“血中女濃度”高しみたいな、そんな人が出てくるお話が好きなのかなって思ってたんですけど、さっきの家族の話を伺うと、
そうじゃないんですね。
田辺
そうじゃないですね。 必ず私のって、タイトルロールが死ぬんですよ。
徳永
ああ!ほんとですね。
田辺
ほっとんど必ず死ぬんです。
徳永
死にますね。
田辺
夜長姫と耳男だったり、サロメだったり、エレクトラだったり、必ず死ぬんですよ。やっぱり単純に死ぬって言うことが、なにかを生むっていうことでもある。
徳永
そうか、終わりじゃないんですね。
田辺
全然終わりじゃないと思うんです。象徴としてうめるのは、やっぱり女性のほうが分かりやすい。その生んだものをどうするのかというのは女性が
受け取るべき問題かもしれないけども、勿論男性も受け取れる、ということは万人が受け取れるんじゃないの?と。そういうのがあるんじゃないですかね。
見事に死ぬもんな
棟方
見事に死にますね。それによって男がどうにかなるという物語なんですよね、やっぱり。
田辺
寺山さんの「レミング」とか「奴婢訓」とか、一連の作品の主題ってほとんど変わらないんです。つまり「脱構築」だと思うんですよ。「脱していく」という、
そのカタルシスを強く打ち出す。今の構築されたぎっちぎちの社会から脱して行くっていうことだと思うんです。私も影響を受けたように、「青春」じゃ
ないですけど若い者のカタルシスの共感を呼ぶんだと思うんです。
ただ、寺山さんが予言したというか予想した脱構築の社会はもうなっちゃってると思うんですよ。三島さんが亡くなる数ヶ月前に新聞の社説に寄稿した
日本の30年後っていうのはものの見事になっちゃってましたよね。軟弱で・・・、そんな島が極東にポツンと残ってるみたいな。 同じように寺山さんが
予想した社会は90年代もうすっかりなっちゃっていると思うんです。私は世の中に新しいことが起こるとはまったく思わない性質で、やっぱり螺旋のように
回っていくんだと思うんですよ。
そうすると、脱構築されてしまったということは次は構築を求めていいんだなと思っていて、じゃあ、構築って何か?って言った時には、「個人と社会」って
こともあるでしょうし、私の中では一番解りやすい演劇的なものは「家族」、これをどう構築していくかということなんです。螺旋なので「カミナリ親父」の
復権ってわけじゃないんだけどね。
演劇の流れで言うと未だに寺山さんのラインって、まぁ万有引力は直系ですからいいですけど、他の人はどうしても天井桟敷の芝居をコピーしますよね。
ああいう「脱構築」はもうウンザリしていて、構築って結局は「家族」だったり、その、なんと言うのか、やわらかいものをテーマにするのが多くて選び
ずらいのかもしれないと思うんですけど「身毒丸」にしても「サロメ」にしてもちゃんとそのように読めると思うんですよね。
徳永
どうしても多くの人は、格好良さとかお芝居の美しさみたいなものを台詞に求めがちですから。しかも寺山さんにしても、ワイルドにしても、強烈な言語を
持っているますから。
田辺
今回の訳は日夏耿之介さんで、日夏訳がまた強いんですよ。
徳永
ずるいくらいですよね(笑)。
田辺
文語交じりの口語で、美しいんです。元々この人は詩人ですから、選ぶ言葉が物凄く「音」として選ばれているっていうのがあって、もう奏でてしまう、
歌ってしまいがちなんですよ。
徳永
それは危険ですね。
田辺
危険極まりない。わかっていない演出家がいて、日夏訳だと役者は歌うと思うんですよ。俳優が酔うと思うんですよ。もう見たくないですよね。逆に
この美しい日本語をきちっと言えれば客が酔うっていうか、ちゃんと酔えると思うんですね。
徳永
その差はすごく大きいです。
田辺
大きいです。どこに芝居の力点を持ってるか。私は、ほとんど客の方に持たすんですよ。客がジャッジする芸術なんだから、出てるあんたらが
酔ってどうするの?みたいなね。客を酔わす為にやってるようなもんじゃないかと。
徳永
私も本当にムカつきます。役者さんが酔いしれてると、なんかもう本当に・・・
田辺
ハンマーで殴りたくなるね(笑)
徳永
同感ですね。あなたが今、格好いいとして、でもその言葉は作家が観客に向けて書いたものであり、この空間は演出家が観客に向けて作ったもので、
あなたを酔わせるためにあるんじゃないんだから、“格好いい”の先を見せてよ、と思います。
田辺
半径50cmで芝居やってる人はね。本来は演出用語で言えば「いる」ことができればいいでしょ?カラダがいれば、言葉はポッと乗ってくれれば良くて、
そうすれば客がそれを反芻して再構築するんですよね、美しさを。見たままをすごいって言うんだったら、それはエンターテイメントと呼んで良くって、
ドラリオンでいいと思うんですよ。あんなに飛んだ!とかあんなに曲がる!とかわぁ凄い!っていうのがエンターテイメントだし、見せ付けられていいと
思うんですけど、芸術は違って、こういう想いが私の中で沸き起こる、というのが芸術だと思うんですよね。
徳永
舞台に立っている人の美しさも、もちろん本当にとても大事なファクターだと思うんですよ、演劇にとって。やっぱり人間の視覚から伝わる情報って
すごく大事だから、出て来た途端、一瞬にして酔わせてくれるっていうのはすごいことだし、役にハマッてると思えるは素晴らしいことだから。だけど
私達観客が客席にいる時間は一瞬じゃないから。役者さんが自分に酔ってる瞬間を持続されると、核に何もないことはわかってしまいますよね。
田辺
ありますよね
徳永
やっぱり役者さんが、人前に生で立っていることの危機感を感じながらそこにいるっていうのが、すごく大事じゃないですか
田辺
そうですね。そう思っても例えば鈴木メソッドが入っちゃうと鈴木メソッドに持っていかれちゃったりもするんですよ。
徳永
そうですね。
田辺
そこが非常に怖いし、難しいところでもあるんですよね。だから、モスクワ芸術座の「リア王」でしたっけ?あれはテレビでしか見てないですけど、
すばらしいと思いましたね。鈴木メソッドってやっぱりすばらしいんだと、ちょっと思いました。でも日本人がやる鈴木メソッドはなんて格好悪いんだとも
思えるんですよ。メソッドに持っていかれちゃってる。。。
徳永
鈴木メソッドならぬ鈴木ロボットになってしまうんでしょうね。野田(秀樹)さんが夢の遊眠社をやっていらした頃も、本物は実際にすごい体の動き、
喋り方があると思うんですけど、形だけを真似した野田ロボットの劇団がいくつも出ました。
田辺
それは私自身もわかっているつもりです。時間はかかりましたけど私にはこうかなというのがあり、それをどうやって俳優に気づかせずに身体性を整えて、
その人の「個」を前に出すか、策略的には身体訓練にそういうものを入れてるわけです。噂の民族舞踊(鬼剣舞)を全員がやって、ただ民族舞踊マスター
劇団じゃないから、それをやることに意味というか、エンターテイメント性はないんですけど、やっぱり腰が少しずつ落ちてくる、足の裏の地面への
密着度が少しずつ増してくるんですね。それでいいんですよ。もうそれだけで後は「個」を引き出して行けばて良い。身体の動き方を寄せ過ぎちゃうと
厳しいかなと。
徳永
方法論そのものが目的になっちゃうと、だめなんですよね。
田辺
そう、履き違えちゃうんですよ。ザ・鈴木メソッドになっちゃうんですよね。逆に寺山さんが生きてたら今何やってるのかってよく思います。演劇は
やってないんじゃねーの?とか(笑)
徳永
そんな気もしますけど、演劇に飽きられちゃってたら、ちょっと寂しいです。
田辺
インターネットを使って何かやっているか、まあ新しい物好きですからね。何やってるのかなってよく思うと、とてもじゃないけど天井桟敷的な芝居は
やってないだろうと、白塗りで、ハゲにして、あれはもうすっかりやめてるだろうねっておもいます。うちもすっかり白塗り辞めましたし、剃るのも
辞めましたし、でも演劇がどう変わっていても変わらない物、つまり芯は何かというと「物語」と「現代性」でいいんだと思うんですよね。そこをしっかり
まじめにつきあっていれば見てくれている人は見てくれているし、出す人は・・文化庁さん(笑)出してくれるし。
そうそう今回初めてなんですよ。芸術文化振興基金をもらえたのが。
徳永
それはそれは、おめでとうございます(笑)。
田辺
有り難う御座います(笑)本当、えっと思われるかも知れませんが初めてなんです。
徳永
もっと早くからもらわなきゃだめじゃないですか(笑)。
田辺
毎年毎年一生懸命書いて・・うちには「挫折の記録」って言うファイルがあるんですけど、もう一杯一杯です。溢れかえってます、不採択の書類で。
50枚とか60枚とかね。
徳永
いやぁでも本当におめでとうございます。エデュケーション・プログラムの活動とかを知ると、公的な補助金が出て然るべき劇団だと思います。
田辺
芸文は、やっぱり、審査員の方もそうですし、認められた次の公演ですね、きちっと見合う物をやれれば続いていくと思うんですよ。なので浮つかず
一生懸命サロメをやればよいかなぁと思うんですね。
徳永
最後の質問なんですが、サロメは一番多く再演されているそうですね。それはなぜですか?さっきお伺いした家族の問題が大きいのでしょうか?
田辺
届かないんですよ。本質に。くやしいかな。他の作品も、レパートリーはみんなそうです。悔しいんですよね。中に埋まっている物がわかっているのに。
表に現わす、表現しきれないんです。でもレパートリーシステム、つまり何回も何回も上演するのは興行的には宜しくないですよ。お客さんだって
2回3回って見に来るお客さんがいるかどうか・・でも日本の今のこの状況の中でやっている側は1回で掘れるほどの実力はないと私は思うんです。
だったら何回もやることで見えてくる物、たとえば、ここを掘れば確実にあるんじゃないのかというのは何回もやらなければ出てこない物だと思うんです。
私も天才ではないので様々なアプローチをしますけどスカが多いんですよね。演出としてこうやったらどうだって棒差し込んで持ちあげようとするけど
あがんない、本当は人との相乗効果であがるんですけど、私だけ一生懸命棒を押し上げてるだけだったりするんですよね。でも上がるポイントは
見つけてきたので今回は絶対にあげてやる、と思ってるんですけどね。
サロメは劇団として最初にやった作品ですけど、最初でしたから2000年当時はひっちゃかめっちゃかで、2001年ギリシャ公演を初めてやってぇ、
聞こえは良いですけど、もうひっちゃかめっちゃかですよ。鬼剣舞をやることに血眼になったりして。その意味もわからずに皆汗かいてたし。でもそれとは
メンバーが替わって、若いですけどこの2.3年苦労してきたので、私は今回あがる可能性があると思うんです。続けてきた実感は確かにありますね。
オケとやるって言うことは小劇場では出来なくなったんですよ。どうしても中劇場でしか出来なくなったということは当然予算もでかくなってしまうんです。
本当にオケと続けたければ、本当にお客さんを入れなくてならなくなったんです。今までは来たい人だけ来れば、なんてのがなきにしもあらずだったん
ですけど、いやもう来て欲しい!!!!って!
徳永
(大爆笑)ここに来て遂に大人になった!!
田辺
いや、だってこんなに苦労してんだもん!こんなに作品に自信があるんだもん!もう見て欲しいって思って!!本当に見て欲しいんですよね!